私には一生の夢があります

2011
薪窯焼成
修得スタート

各地で陶芸の教えを受けつつ

陶芸家Paul Lorimerさんに学んで10年以上も経ちました
やんばるの料理とやちむんで
世界中を魅了したい
徳利とぐい呑みで酒を嗜む。幼い頃、なにげなく眺めていた光景。いつの間にか、父が集めた益子焼、信楽焼、備前焼などの陶器に親しんでおりました。実際に、陶芸に触れたのは19歳の頃。スクールで様々な造形と電気窯での焼成を学んだのが始まりです。手捻りでの造形はすぐに上達していったのですが、ある時、課題であった絵付けが絶望的に下手なことに衝撃を受けました。
負けず嫌いな私は、独学で絵を学び始め、あらゆる美術に関する書籍を求めるようになりました。そして、日本文化を体得せずして日本の美術など本当には理解できないことに気付き、京都嵐山へ移住。この頃は、とにかく学ぶことが楽しくて楽しくて。飲食で生計を立てながら、美大を目指す学生たちに混じって、デッサン・水彩・油絵を学びました。また、嵐山の文化人である名士や書家の方々との出会いにより、禅や詩に親しむ経験をさせて頂きました。
その後、親類の縁で沖縄へ移住。伝統産業に携わる地場企業のWEB構築やクリエイティブ、マーケティングに関わるようになりました。様々な仕事を通じて、沖縄の伝統文化を学ぶ体験を積んでいく過程で、「一度、外から日本を見て自分を省みたい」という強い欲求が内から湧いてきました。
そして、ニュージーランドに短期留学。短い滞在でしたが、海外での交流は大きく視座を高めてくれたように思えます。
やちむんと人間味
沖縄へ戻った頃、たまたまニュージーランド出身の陶芸家Paul Lorimer(ポール・ロリマー)さんの陶展が開催されていました。不思議な御縁で、一度ご自宅へ伺ったことがあり面識を得ておりましたので、気軽に足を運びました。そこで、ふいにPaulさんに「窯焚きの手伝い」を願い出てしまったのです。それが大きな転機となり、穴窯の焼成をはじめ、他の窯元でも窯焚きや窯造りの多様な経験をさせて頂く流れとなりました。
それから10年以上が過ぎ、色々な出来事がありましたが、Paulさんの穴窯焼成だけは他のどんな物事よりも優先してお手伝いさせて頂いてきました。なぜ、そうしたいと思っているのか一言では言い表せませんが、Paulさんの人となりが、そうさせているのだと思います。そういう、人となりの方が創る、純朴な器が好きなのです。そういう器「やちむん」を、やんばるの地で、創りたいのです。それを日本だけでなくて、世界中の人々に使ってもらいたいのです。沖縄の土で出来た沖縄の人の手による沖縄らしい器が、どこかの国で、ホッと心安らぐ日常の一コマになっていたら、沖縄が好きな人ならなんだか嬉しくないですか?
言葉にならない。言葉にしようとすればするほど、なぜか伝えたいことと離れていってしまう。けれど、たった一つの器や料理で、何もかも、国や文化を超えて、大切なことを素直に受け入れてもらうことができる。それは器や料理に「人間味」が加味するから成せることではないでしょうか。やんばるという野生味のある花鳥風月の豊かな地は、人間味を形成する大きな強みを持っていると感じております。
優れた陶工を求めています
ささやかな目標ですが、まずは2023年に一人でも作品を焼くことができるサイズの単窯からスタートしたいと準備を進めています。次に優れた作品を生み出すための穴窯、そして質と量を実現させるための登り窯へと、器と料理の学びを深めながら、同志を集いながら歩んで参りたいと考えております。
自分が陶芸だけをやるために生まれてきたような才能に恵まれた人間ではないと理解しています。しかし、食のエキスパートであり、ITとクリエイティブのプロフェッショナルであり、焼き物の伝統技術を学んだような人間は、他に存在していないのではないかと思うのです。だからこそ、自分だけがやれることがある。使命、天命というべきもののような、心が突き動かされるものがあります。
どんなに優れた陶工でも、料理の腕も一流という人間は限られます。
料理がわからなければ、優れた器を生み出すことはできません。
酒がわからなければ、気の利いたぐい呑みがつくれません。
花がわからなければ、花が生きる花器をつくれません。
今この時代の人々に愛される作品が、どのようなものか?
「どんな器を創るべきか、どう創り上げるか」に私は専念します。
私なら、料理の腕は認められておりますし、酒も造る側にいた経験がありますし、草花も何百種と育み愛でてきました。
だから、私にプロデュースさせてください。
一人では生み出すことの出来ない、最高のものを創りましょう。
一つのチームとして、グローバルに通用する作品を、陶芸家らと共に生み出していく。クリエイティブチームとして、個人個人の強みを活かすことでしか生み出すことができない強力な魅力をもつ作品を、広く実生活の中で使って頂きましょう。
そのためには、やちむんの質も量も高めていかねばなりません。やちむんの魅力とは、人間味ですから、豊かな人間が育まれなければなりません。個人として求められる技量を得ることに努めるだけでなく、人として多様な才能が輝く場所や環境を、自分の責任のもとに創り育てる。それを成し遂げることが、私の夢の姿です。
自然と、人と。
薪で作品を焼くということは、電気や灯油で焼く陶芸の世界とは、全く異なる世界です。本質的に、一人で出来ることではありません。どうしても専門性の高い仲間が必要です。応援して下さる方々も大切な支えとなります。とりわけ、地域の人々の理解と協力がなければ成り立ちません。作品を焼き上げるためには、自然の木材を加工した後の廃材が必要です。木を育むには何十年もの時間が必要です。時間そのものをお金で代替えすることはできません。ですから、木を育む環境づくりや林業に従事する人々を陰ながらでも支援することが町として必要になります。
作品を彩る釉薬には、木灰や草灰など自然の灰が溶媒として用いられます。灰が多様であれば、豊かな表情、多彩な作品を生み出すことができます。そのため、個人で灰をつくるだけでなく、様々な伝統的な職業の業務で生じる灰を分けて頂き、作品に反映させることが望ましくなります。たとえば、染織家が作品をつくるために、気の遠くなるような手間と時間をかけて糸を染め上げるための作業で生じた「灰」。その灰でしか生まれない、色や表情があるのです。
むかしは、このような灰を、おばあさんやおじいさんが時間をかけてすってくださいました。年配の方の役割も、一連の流れに組み込まれていたのですね。そのようにして出来上がる素朴ながらも複雑で豊かな素材と、科学的に出来上がる垢抜けて単調な素材との持ち味の違いは、「誰でも、ひと目で感じる」ことができます。
昔ながらの陶藝と呼べるものは、自身の血肉と生命を懸けてやるものであったと思えてなりません。足裏を血だらけにしながら窯用の土を踏み育てたり、長期に渡る窯焚きで人手が足りない時などでは、これで死ぬかもしれないと覚悟しながらやるものです。こんなことは現代にありえないと思われがちですが、とある窯での私の実体験です。良作が生まれた時代には、更に過酷なものであったに違いありません。焼き物は、「焼き」がすべてを決するものですから、気軽に焼かれたものは気軽なモノにしかなりえないのは当然のこと。生命を懸けるのは行き過ぎにしても、真剣でなくては、上質な人間味が作品に表れることはないでしょう。
日々を、創る。
そうして正当に生み出された作品を、正当な価値を伝えつつ、フェアに、広範囲に届けたい。時代の潮流として、個人作家や中小企業メーカーはプラットフォーム等での直販に移りつつあります。しかし、より良い業界の発展のためには、作り手の想いや物語、地域文化を伝える「良き伝え手を増やす」ことこそ肝要です。
そのためには、作品の卸売あるいは利益や便益のシェアが欠かせません。一時のフェイクに左右されない、理解のあるパートナーの伝達力と販売力なくして、グローバルマーケットで長期的に選ばれ続けることは難しい。
利益を最大化しようと思えば、安価で且つそれなりものを海外でつくり、海外で販売することが日本における資本主義として正しいことのようにも思います。それはそれで結構なことですが、頭で考えた正しいことが、正当な結果を生じるとは限りません。頭で想像する概念と、自分で実際に実体感することとは違うのではないか?人間は、そんなことをしていて幸せになれるようなものではないのではないか?そういう疑問と向き合い、仕事にも、自分の周りにも、わずかでも良い形で反映させていきたい。
個の発信や伝達速度の著しい発展など、時代は日々変化していますが、変わらないこともあります。私たちは、消費するために生きているのではありません。消費されるために、何かを生み出すわけではありません。まして、一時のフェイクまみれの流行の繰り返しの中、自分を偽り続けるような人生を送るために生まれてきたのではありません。
自分のできる「ささやかなこと」が、誰かの笑顔に繋がると思えるから、発信し伝えようとするのではないでしょうか。それが、自分を含めた一人ひとりの幸福に繋がる。日々、仕事をやるという意義も同じようなことだと思います。
ひとつひとつの仕事が繋がっていて、協力すればするほど素晴らしい作品ができるようになる。自然を維持し、育むこと、サスティナブルな社会の構築にも繋がります。私たちがすべきことはシンプルです。自分の仕事に最善を尽くし、業種を超えて互いに協力し合うということです。
どのような職種の方でも、協力し合えることがあります。
なにかを分けてくださる方、歓迎です。互いに分け合いましょう。
資金を援助してくださる方、歓迎です。より高い価値で返します。
自由に作品を創るためには、自由にやるための糧も必要です。
自由を得るためには、仕事が必要です。
だから、私は仕事を創り、仕事に全力を尽くすのです。
仕事は、生き甲斐なのですから。